2014-10-14 民主主義を訴える

「天安門」事件にならない解決を!!

 

香港で民主主義を訴える若者が中心に行動を起こしている。25年前の「天安門」事件のような悲劇で「終結」となるは二度とやめてほしい。

思い返すと1989年(平成元年)6月に「天安門事件」が起き、その直後に日本の不動産バブルがピークとなり、1992年にバブルは崩壊した。年表にすると以下のとおりです。

1968年(昭和43年)

鏑木、大学を卒業し、エッソ石油(エクソン)入社。

1972年(昭和47年)2月

ニクソン米国大統領が中国訪問し、米中国交正常化。

9月

田中角栄総理大臣が中国訪問し、日中国交回復。

1973年(昭和48年)

第四次中東戦争、第一次石油危機。以後石油支配管理権は、石油メジャーから原油産出国に移った。

1984年(昭和59年)

中英間で97年香港返還に最終合意

1985年(昭和60年)

プラザ合意=急激な円安ドル高(それでも240円→210円/ドル、1年後は150円/ドル)

1989年(平成元年)6月

中国・北京「天安門事件」

12月

日経平均株価 最高値38,915円87銭をピークに、以後暴落に転じた。

1990年(平成2年)4月

中国「基本法」制定し、「一国二制度」を香港に適用すると事実上決定。
(現在、香港の若者が言うには、この「一国二制度」が形骸化されている、とのこと。)

 日本不動産バブルのピーク。翌年から地価暴落。停滞の20年の始まり。

1992年(平成4年)1月

鄧小平・中国最高指揮者の「南巡講和」(いわゆる全国行脚)開始。
「計画と市場は全て経済的手段であり、社会主義と資本主義の質において違いはない」などと述べた。

1997年(平成9年)7月

香港が中国に返還される。

当時、日本の不動産バブルの原因は、1985年のプラザ合意をきっかけとする、日本国内需要拡大を促進するための日本の金融の過剰流動性と言われていた。要するに過度なインフレ経済であった。現在、その過剰流動性を上回る超金融緩和である。日銀総裁の言う「異次元の金融緩和」である。

それは「天安門事件」で、当時(今もだが)国際ビジネス拠点都市であり、国際金融センターの香港が中国に返還されると、「天安門」のように弾圧され、ビジネス拠点はなくなってしまう。そのビジネス拠点の移転先が、政治、治安も安定している日本(東京圏・関西圏・名古屋圏)になる、と大手都市銀行など金融のプロが予測したから、不動産バブルは起きた。中国が香港を当分「社会主義化しない」と打ち出すや、日本のバブルは崩壊した。

バブルは所詮バブル(泡)だから、いいことは何もない。そのもとである弾圧や戦争はさらによくない。やめて欲しい。