山田富士の歴史

造成前の北山田周辺地図
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山田富士 [思い出]

山田富士は長泉寺の寺領でした、麓に草葺の太子堂があり、お坊さんがおられ、娯楽とてない時代、村の若者が夜 太子堂を訪ね囲炉裏を囲んで知識を広めた、だんだん数が増していつしか若者の集会所となり、村の戸主会も集会に使い始め、正式に寺から村が富士山全部借用いたしました。年貢米を農家の耕作反別によりお米を集めて俵に収めて寺に収めました。割り当ては確か一反お米一合だったと思います、戦後も続き私も青年会でお米を集めて太子堂の庭で俵に詰めて仲間とリヤカーで寺に運んだ経験があります。

毎年七月一日朝五時に村中総出で富士山の草刈をしました、村からの連絡もなく昔から延延と草刈が公団に移管されるまで続いておりました、当日朝遅刻すると気まりが悪く崖の足場の悪い場所で汗を流した物でした、毎年マムシが捕獲されていました。刈る場所も富士を北から重代谷戸 しんなし谷戸 稲荷谷戸 芝生谷戸と決められており、草の片ずけは青年会の仕事でした。

七月下旬に大山代参と雨乞い行事が行われており現在も代参は続いております、毎年農家の代表七 八名が代参当番で大山神社に参拝して五穀豊穣と家内安全を祈願、御神酒と水を頂き持ち帰り、翌日村中太子堂に集まり、代参報告が行われた、まず持ち帰ったお水を桶に入れて、井戸から汲み上げた水で桶一杯に増やして、天秤で二人で担ぎ山田富士の頂上に数人でロッコンショウジョウを歌いながら上り、桶の中に笹を浸してサンゲサンゲと濡れた笹を振り雨のイメージし「雨乞い」を行い、桶を太子堂まで担ぎ下ろして、今度は二つの大桶に水を入れて増やし、部落二つに分かれてバケツで水を掛合い雨乞い行事をして後、御神酒を注いだお神酒を振舞い代参と雨乞い行事は終わった。

四月八日はお釈迦様の誕生日、桜の開花と並び盛大でした。大釜で甘サケを沸かして振舞った、甘い物は中々口に人らぬ時代だったので子供は学校から帰り、富士山に駆けつけ甘酒をお変わりして満足していた。

桜の満開日には近隣から多くの桜見物が見えられた。綱島の芸者さんが、ヨシズの座敷で、三味線を弾いて騒いでいるのを、遠くで見ていた。家に遅く帰り子供は何時待でも見ているではないと叱られた。五月は近隣の学校の遠足の場所だった。太子堂横に小さな運動場があり、戦後青年会によく利用されていた、富士通とのバスケットの試合、中川町とのバレーの試合裸電球の下暗くてよく怪我をしたが、太子堂は青春の思い出であった。

話題が前後になるが、終戦間際は悲惨だった、次々召集される先輩の送別会、食糧難で太子堂の中で行われた送別のご馳走は、お皿の代わりにした新聞紙に薩摩芋輪切りにした二切れだけ、灯火管制の黒い布をかぶした薄暗い電球の下、輪切りの芋の傍に女子青年が、想いを込めて丹精してつくった芋のチヤキンシポリが故郷最後のご馳走だった。

当時の若者は、国の為に命を捧げるのは当たり前と信じていた。出征は死を意味するもので、征くも送るも、今生の別れと覚悟していた。行く者とすれば、男と生まれてせめて、今生の別れに愛する女と交わりたい、女とすれば、国の為に命を捧げる愛する男に、此の世の別れに女の操を捧げ、心おきなく送ってあげたい。厳しい戦時下であったが、愛は貫かれたと聞く。入隊する前夜、征く先輩から、想い残すことはない、お前も区切りをつけて後から来い、先に征くぞと分かれたが、国敗れて私は今生きている。戦前変革の時代の愛は、死での旅路をおくった母性愛であり、当たり前の事だが、何時の世にも母〔女〕は強く生きる源です。若者の多くは戦地でヨミの国へ旅たったが、ご婦人の方は幸せな人生を送られている。

送別会の翌日太子堂庭で村中総出で出征兵士の壮行会、村境まで、後輩青年団が、「勝って来るぞと勇ましく」軍歌に送られた。同じ道を、遺骨迎えと交互では、征く兵士は悲壮になる。終戦間際、防諜の為 壮行会と集会は禁止され、出征兵士の見送りは同行者一名、深夜 密かに入隊せよとの通達があり、私の従弟は、付添いと二人で食べる物が無い時なので、おにぎりを風呂敷に音がせぬよう裸足足袋で闇に消えた出征は深夜異常な雰囲気であり悲壮感があった。

青年学校〔軍事訓練校〕山田富士は何よりも大事な演習場だった、生徒は周りの田圃に散開して匍匐前進銃を両手で支えて腹ばいになって肘と膝で前進、泥だらけになって頂上目指して最後は着剣して急勾配を突撃、青春の汗を燃やして頂上から、見下ろした田園風景は、今はない。

昭和十三年「紀元二千六百年記念事業」として山田富士頂上付近に枝ぶりの良い赤松の大木が二本あったが、天皇陛下が毎年行われる近衛師団を白馬に跨り閲兵するバックの松として青年団の奉仕で一本移植されました。

私は六十年ぶりに一昨年、久しぶり後輩と皇居を訪ね二重橋前の公園で、赤松をさがしたが、公園がすっかり整備され、探しましたが見つかりませんでした。後輩の父が赤松の移植の奉仕に青年団でされたと亡くなられた後輩の父から聞きました。

戦後新生日本を築こうと復員兵を中心に太子堂で夜青年会の会議をしていた、会議の途中屋外に出たら、暗い桜の木の下に復員兵が立っていた。先輩が、お帰りなさいと声をかけたら、戦争中私が奉仕して遺影写真を奉じして告別式を行った戦死した兵隊さんなので吃驚した。話しを聞くと、玉砕した硫黄島で終戦も知らず洞窟に潜んでいたと話された。米軍二世が小船で洞窟付近まできて、戦争は終わった早く故郷に帰れと投降を呼びかけたが、日本の降伏は信じず、何時か援軍が来ると思ったが、爆音もなく静かなので、洞窟を出て終戦を知ったそうです。丁度弟さんが先に復員して会議に同席しておられ、急いで母親を呼び深夜親兄弟共壮行会で送られた同じ太子堂の庭で親子の対面、復員兵は横浜が全滅したと聞き横須賀に上陸、心配で復員手続きせぬまま、綱島から歩いてきたと聞き、親兄弟家も無事を確認できたら、今夜の内に横須賀に帰り、復員手続き終えて、除隊するよう説得自転車で綱島まで数人で送っていった。数日して復員兵は寺墓地から自分の墓標を担いで帰り私宅の垣根に墓標を立てかけて立ち寄り、硫黄島の生き延びた壮絶な様子を語ってくれた。洞窟の中は暗く戦友の死体が腐乱してウジムシが湧き、食べるものがなく、雨水をすすり、ウジムシを食べ命をつないだ、日本は絶対に負けない、必ず援軍がくると信じていたが、砲声も爆音も聞こえず、洞窟の前を小船で米軍の二世らしき兵士が、もう戦争は終わった、皆国え帰った、早く出て来て帰りなさいとマイクで呼びかけるので、恐る恐る洞窟から這い出し助けられた、死んだ戦友に申し訳ないと涙ぐんでおられた、生きている幸せがどんな大事か、復員兵は〔父が訓練指導員だったので〕報告にたちよられた。生きて涙の親子の再会は山田富士の忘れえぬ思い出であった。今は建物も太子堂の庭も消え、終戦当時を知る人も消えつあります。

富士若青年会で娯楽とて何もない時代、幾夜も練習して素人芝居を行い敬老会を開き、老人を招待して喜ばれた。深夜になっても折角練習したのだと律儀な老人は幕が下りるまで席をたたなかった。

ニュウタウン前までは町会が管理していたので手入れが行き届いていたが、公団管理になってから仏像碑文等多くが盗難されてしまった、横浜市に移管される条件として、山田富士にある地蔵等は公園には置けないので撤去するよう要請された、先祖代々受け継がれてきた子育て地蔵等の撤去は断じて呑めないと北部公園事務所と論争、市としては信仰対象の物件は公園には置けないと法律を建てに譲らず、里を埋めた住民とすれば、せめて山田のシンボルは守りたい、最後は現場でお祭りは一切しない誓約書を町会長か書けば現在地に認める事で落着した。地域とすれば愛着と思い出の詰まった山田富士を見守りたい。

山田富士裾野に工事用道路を山田富士組〔失業した農家の生活対策の土木会社〕が造成中、裾野に子供の頃乗って良く遊んだ松のしだれた大木があった、古老の言い伝えによれば、昔太子堂に訪ねてきた、お坊さんが亡くなられ、近所の人が、松の大木の下に懇ろに葬ったと聞かされでおりました。この言伝えは若い社員は誰もしりません、バックホーウで既に切り倒した松の下を掘り返しておりましたら、土砂と一緒に骸骨が転がり出て、作業員は吃驚、富士組事務所に連絡があり私が現場に急行、現地を確認したら、言伝えの松の場所と一致、すぐに公団に連絡、公団補償課の指示により、長泉寺のお坊さんに現場で供養して戴き寺基地に埋葬しました。現場を調べましたら、炭を敷き詰めた上に多少の骨とキセルの金部分薬入れらしき入れ物がありました、古老の言伝えが造成工事で確認されました。其の場所は工事用道路だが事故が多く、現場で供養してから事故はおきておりません。

山田富士は長泉寺の寺領だったので、謎めいた言伝えがあります、山田神社も妙見山の山号のように寺領でした、御神体の一部が北の方向の寺山の地下六尺に埋めたと伝説があり、古い富士山の地図に墓地の記しがあり探しましたが、判りませんでした。この伝説は、私が若い頃、旅で同室した時、大棚の大工さんから、お前のお爺さんから、伝えられた、お前に何時か伝えたかった、俺は責任を果たしたと言われたが、謎めいた伝説だが私は記事にして伝えたい。

徳川から明治、大正、昭和、平成と山田を見つめてきた山田富士を住んでいる人が守らねば、先代に申し訳ない。

市の公園に指定されてから、頂上付近まで植樹され樹が大きくなり富士山の形が見えなくなり残念です、地域が管理していた頃は、景観を重視して頂上には植えず、富士の容姿が見事でした。

男全 冨雄(おまたとみお) 著

男全冨雄様の許可をいただいて掲載いたしました。男全冨雄様はステキな絵入りの、日常の生活もよく紹介されている港北ニュータウンの造成前からの歴史書「望郷」の著者です。

山田富士公園の四季